あなたとともに。
 沢田家の食卓は、平均的日本人の食卓としてはそこそこに豪勢な方である。
 質もそうだが、量もけして少ない方ではない。
 一人だけとはいえ、育ち盛りの子供がいるせいだと思ってきたそれが、実は家の本来の主の胃袋に合わせたものだとビアンキが知ったのはほんの数日前、家長である沢田家光が数年ぶりに帰宅した直後のことだった。
 その時に出された料理だけ見ても、たっぷり二十人前----通常の三倍量はあった。だというのに、それでは足りないと奈々は食材の再買い出しに出かけている。家光が戻ってから、ずっとそんな状態が続いているのだ。

 その日の料理もまた、豪勢なものであった。
 買い込んだ食材の下拵えを開始してから既に一時間半。冷蔵庫は出来た料理で一杯だ。それに更に追加すべく、仕込みは更に続いている。今取りかかっているのは定番とも呼べそうな大皿料理----大量の牛肉を包丁で叩き挽いて味付けし、ゆで卵や野菜と共に耐熱仕様の大皿に詰めたミートローフ。既に十品以上の品を仕上げているだろうに、手際よく大皿へと材料を詰めていく奈々の横顔に疲労の色は見当たらない。むしろ逆に、幸せそのものといった様子である。そしてそれは、料理以外のときも同じだ。
 持ち込まれた大量の洗濯物を庭に干し、畳む時。風呂の用意が出来たと呼びに行く時。酒やビール、つまみ等を用意する時。甲斐甲斐しく世話を焼く姿は、見ている方が和んでしまうほどのもので。
 だからこそ、----ビアンキには、少しだけ気になったことがあった。

「……ママンは」
「え?」
「ママンは、パパンを追いかけようと思ったことはないの?」

 オーブンは、家光の帰宅からフル回転を続けている。本日も既に三度目の稼働だ。
 メインディッシュの二皿目、それまで焼かれていた皿一杯のグラタンが細い手で危なげなく取り出される。代わりにミートローフの皿を押し込んで、ふうと汗を拭った奈々は一度だけ目を瞬いて----それから質問の意味を悟ったのか、微笑んでみせる。
「ずっと昔にね。一度だけ出かけるあの人の後を追いかけたことがあるのよ」
 くすくすと笑う表情は、少女のようだった。ツナの----既に中学二年生になるような大きな息子を持つ母親ということを一瞬忘れてしまいそうなほどに無防備な、笑顔。
「結果は?」
「三十分で見失って、しかも迷子になっちゃった。慌てて元の場所に戻ろうとして、更に迷っちゃったのね」

 気がついたら隣町どころか、既に県境を越えていたという。
 時刻は夜半過ぎ。降りた駅は無人。既に、折り返し戻ることすら出来なくなっていた。折しも季節は冬。明かりも暖房もない駅で寝泊まりなどしたら命に関わるような状況で。
 ------真っ暗な待合室の中、寒さと恐怖とで半泣きになっていた彼女を助けてくれたのは、警察でも鉄道職員でもなく、早々に見失ってしまったはずの家光だった。

「ヒーローみたいね、パパン」
「そうねー。ホントに格好良かったわ」
 ビアンキの声に、うっとりと奈々が微笑んだのは一瞬。
 けれどそれも、次の瞬間にはどこか悲しそうなそれに変わる。
「その時に、こうに思ったの。……この人と、一緒に並んで歩くのは、私にはきっと無理なんだろうなあって」

 言葉も、表情も変わらない。声だ。ただ淡々と、事実だけを言う。
 けれどその中に含まれた絶望を、感じ取れないほどビアンキは子供ではなかった。何より彼女自身もまた、同じ思いを感じたことは一度ではない。
 いつも何処か遠くに行ってしまう、愛しいひと。
 それに追いつけないのではないかという恐怖。追いつくどころか追い抜かされて――気がついたら、足を引っ張っているかもしれないという不安。
 毒の扱いには誰よりも長けると自負するビアンキですら、リボーンに対してそうした不安を完全に拭うことは出来てはいない。彼は――リボーンは、常に自分の思惑の上を行ってしまうのだ。そこが愛しいと感じながら、不安に思う。
 まして何の後ろ盾も己の力も持たない奈々であれば、その不安は尚のことだろう。

「パパンには、それを言ったの?」
「ええ。でも、言ったら怒られちゃったわ」
「え?」
「怒ったの、あの人。信じられないでしょう? それでね、こう言ったのよ。『足手纏いになるくらいで諦められるなら、最初から声なんてかけなかった』って」
 目を細める表情は、悲しみと呼ぶには透明で。
「……ああ、逃がしてもくれないんだなあって思ったわ」
 だから、ビアンキには声を掛けることすらも躊躇われた。遠い目をした彼女の横顔を、見つめるしか出来ない。
 恋する少女の表情はその一瞬で揺らぎ、曇り。そうして、どこか大人びた女の表情が、ほんの少しそれに染まって、消える。

「でもね。こうも思ったの。この人はきっと……私が何処でどんな風に迷子になってしまっても絶対に必死で探して、見つけて、こうして泣きながら抱き締めてくれるんだろうな、って」
 そう思ったら。
 追いかける必要なんて、なくなってしまったのだ、と奈々は微笑んだ。

「だから、追いかけないことにしたの。早く見つけてくれる場所にいつでもいて、いつも笑顔で迎えてあげようって」

 奈々の表情は、やはり恋する乙女のそれで。
 けれど、本当に「それ」だけではなくて。

 ほんの少し。
 嫉妬のような気分を覚えて、ビアンキは目を伏せた。
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