“我儘は男の罪”と
そう口ずさんだ男の事は、今でも思い出せる。
「女が我儘なんていうのはな、結局、男の惚気なのさ」
キャッチボールの相手をしながら、そう言った男は煙草の臭いを纏っている癖に不思議と白い歯を見せて笑う。
二十近くは年上で。店を構える前までは親父の悪友だったという男。
おそらく、真っ当というものから遙かに遠い筈の男なのに、俺が頼めばキャッチボールの相手を断ったことだけは一度もなかった。
近所の猫の額ほどもない空き地で始めたそれが、一年も経たないうちに電柱の間と間にまで広がるようになったのは、結局のところ男のお陰だと俺は思う。
五歳の誕生日に買って貰った軟球が、俺の三年近く使い込んだ小さいグローブと、最近キャッチボールの為に買い直したという男の真新しいグローブの間をいったりきたりするのは、ほんの1時間ほど。
けれどその1時間ほど濃密な時間を、俺は中学に上がるまで体験したことがない。
視線だけは球に向けながら、俺達は色々な話をした。
学校のこと。親父のこと。小さい頃のドジの話。肝試し。怪談にワイ談。近所の噂。
今になって考えれば、俺の話していたくだらない、それこそ他愛もないガキが背伸びをしてる時に話す荒唐無稽なそれよりも男の話は更にくだらないものだったのだろう。けれど、男の口から飛び出すと、それは何より綺麗な御伽噺になり、血湧き肉躍る大冒険になってしまう。
キワどい話も色々あって、けどそれを見透かされるのが嫌だったので、ふうん、なんて気のないような返事をしていて。
それでも見破られて、さんざんからかわれて。
言葉と、顔とが見えなくなるまで、延々と話していたのを覚えている。
結局、その言葉もそこで聞いた。
「我儘ってのはな、誰でも言いたがるし言いたいものでさ」
夕闇の向こう側で、男は不思議と白い歯を見せて笑う。
スーツは一張羅。イタリアはナポリ仕立ての逸品で、動き易さは折り紙付き。上着にベストまできっちりボタンを填めたまま、格闘技だってこなせるのが男の自慢。
生地に入ったストライプは細く、ひょろりとした男を更に細く見せるけれど、それでもテレビに映る俳優やスポーツ選手みたいにひ弱に見えないのが不思議だった。長い腕が、軽く、けど無駄のないフォームで投げる球が、白く光って飛んでくる。
「けどな、女の我儘は願望だ。欲しい、手に入れたい、そういう願いを言うだけで世界をひっくり返そうなんてことは思っちゃいないんだ」
「男は、ちがうのかよ」
「違うさ」
ぱしんと使い込んだ革が、男の球に悲鳴を上げる。充分に届いて、しかもこちらのグローブに狙い違わず収まっているのに球速はソフトそのもの。
先週の日曜、格下相手に力任せに投げていた近所のノーコンエースに正座で見習わせてやりたいくらいの腕だ。けど、少し前にプロ野球はと聞くと「興味がない」と、一蹴してのけた。サッカーファンかよ、と言ったら苦笑して言った。
俺の腕はそんなものには使わないようにしてるんだ、と。
そういえばあの時、男は歯を見せて笑わなかった。
今も男は、歯を見せる気配もなく、夕闇の中に笑って佇んでいる。
「男の我儘はな、願いじゃない。覚悟だ」
「覚悟?」
「そうさ」
風が吹く。
けれど、自慢のナポリ仕立てが、風に揺れることはなかった。裾がほんの少し揺れているだけ。けどそれで十分だった。
同じく洒落た布地のベストの布地の上には、革製のホルダー。仕込まれているのは、黒光りする鋼の何か。
「世界すら覆す為に、男は我儘を言うもんだ」
男の我儘がなんだったのか。
それを聞く前に、男は姿を見せなくなった。親父に何故かは聞いていない。
けれど、なんとなく判ったことがある。
男の我儘は、本来自分のために吐くものじゃないのかもしれないのだ、と。